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説  教
PREACHMENT


「万事が益となる」ローマの信徒への手紙8章28節
         牧師 阿部祐治

神を愛する者たち,つまり,御計画に従って召された者たちには,万事が益となるように共に働くということを,わたしたちは知っています。

 神の御手によって造られた全被造物と信仰者と御霊との3つの呻きと待望について述べてきたパウロが,ここで私共の救いの確かさについて,それが全く神の恵みによって決定されていることについて述べる。
 その冒頭で「私たちは知っています」と信仰者の公同的知識について訴えている。信仰理解とは個人的な知識であるよりも,教会的な信仰理解に対してアーメンと言って受け入れるところに特徴があることを明確にしている。
 「神を愛する者たち」に神は「万事が益となるように共に働く」のである。パウロは神の人間への愛について多くを語っているが,人間の神への愛についてあまり語らないのだが,ここに信仰者とは神を愛する者であり,神を求め,悔い改め,信頼し,服従し,神を神として礼拝する者であると語っている。
 神を愛する者たちに神は「共に働く」,一緒に働き,あらゆることが良い結果を生み出すということである。信仰者の経験する苦難や困難,死や祈りの無力さなど,それらすべてのことが善のために役立ち,有効であるというのである。その背後に神の働きを認め,すべてのことにおいて神が信仰者の救いのために働くのである。ここで「神」が主格となって働きたもうのである。
 神が先ず「御計画に従って召された者たち」を召して,義とし,子としてくださった事実が先行するのである。私共人間の願いや力によってではなく,何よりも先ず救おうとされる神の意志,必ず成就されるその目的に従って,神の選びの御旨・摂理による時に,神の御計画は遂行されていくのである。
 文語訳では「神を愛する者,すなはち御旨によりて召されたる者の為には,凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」と表現される。多くの信仰者たちがこの聖句に希望と慰めをつないできた。何事も思うに任せない。不如意なことばかりが多い。神の御旨と言っていながら実は自分中心的に自分勝手なご都合主義的な思いを願いがちである。
 神が共に働いてくださるというのは,信仰のあるところ神が全てのことを益となるように働いてくださることであり,自分が考える益ではなく,益は神がお定めになるものであって,私共には必ずしも好ましくないことでも,神が益となることを定めておられるとすれば,それは初めから神が働いてくださることに信頼して理解することが大切なのである。
 神のものとされたのが召された者たちであって神を愛する者たちなのであって,神の御計画が先にあり,それによって神に選ばれているのである。神を愛したから召されたのではない。神の御計画は救いの計画である。神に決意があってその御心は永遠から永遠に変わることがないということこそ人間にとって偉大な慰めなのである。
 小生,一日のうちに姉をそして妻の義兄を亡くした。悲しみのうちに生活しなければならなかったが,忙しく仕事に従事していく中で神の慰めが与えられた。また,泉高森教会は隣接地取得という課題が与えられた。金融機関からの援助を求めたが全てから断られた。そして宗教改革者ルターは152110月ヴォルムスの国会に召集され,自説を曲げずに主張したために教会からも国からも追放され危機的状況に陥った。そのときザクセン領主フリードリヒ候がルターをワルトブルク城に匿うことになった。ルターはその1年間に新約聖書をドイツ語訳にして出版することができて,人々に神の言葉である聖書を自分で読むことができるようにした。人の死の悲しみを乗り越え,経済的危機の中から教会債という信仰的判断へと導かれ,教会と国家から追放されたのを機会に聖書翻訳へと導かれたという3つの事実を通しても,神が万事を益へと導いてくださるお方であることが教えられる経験を最近させられたことは大いなる恵みであった。

「救いをもたらす神の力」ローマの信徒への手紙1章16~17節
        牧師 阿部祐治

わたしは福音を恥としない。福音は,ユダヤ人をはじめ,ギリシア人にも,信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には,神の義が啓示されていますが,それは,初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
 
 5月第一主日より「ローマの信徒への手紙」の講解説教が開始された。何故本書を取り上げたのかを少々説明しておきたい。新年度最初の長老会において,小生の方から長老各位に説教に関する要望・希望を質問させて頂いた。
 その協議の中で,従来通り講解説教を希望していることを確認し,教会形成・信仰訓練の観点から教理について系統的に学びたいとの要望が出された。小生は,泉高森教会の礼拝を若い学生が共に守っており,求道者に対する配慮が必要であること。同時に長年教会生活を続けている者達が「神の御言葉」に耳を傾け「悔い改め」に導かれることを覚える。
 聖書の言葉を,神から私共に語り掛けている神の御言葉として聴くこと。御言葉の前に自分の罪を自覚し,悔い改めに導かれること。そして罪赦される体験を通して,福音を信じることができるようにと願って本書を取り上げるに至った事情を説明し,承認可決されたのであった。
 本書は,パウロが書いた手紙の中で最も主イエスの福音が詳細に議論されている手紙であると同時に,神学論文とも言える。初代教会のユダヤ人キリスト者と非ユダヤ人キリスト者の間では,人はどうすれば神に受け入れられるのか,どのように信仰者は生きるべきなのか,意見の一致ができていなかった。そこでパウロは,「福音は,ユダヤ人をはじめ,ギリシア人にも,信じる者すべてに救いをもたらす神の力である」と大胆に宣言する。1:16
 パウロは55~56年頃,まだ見ぬローマ教会に自己紹介をするために筆を執った。当時のローマ教会はユダヤ人,異邦人のキリスト者が共に礼拝をしていたが,福音について一致した見解を持っておらず,また律法の守り方も相違していた。パウロは本書で,福音の基にあるのはイスラエルの始祖であるアブラハムと神の約束にあると述べる。それは,アブラハムは神を信じた故に神に受け入れられたからであった。その後モーセを通してイスラエルに与えられた律法は,どのように神の民は生きるべきかを明らかにした。更に後になって,神は主イエスを遣わし,律法によって果たせなかったことを成し遂げられた。それが,罪の赦しと主イエスを信じる者の義認である。
 パウロは「福音を恥としない」と語る。「私は福音を恥とは思いません」と。福音を誇りとしますという意味である。キリストを死者の世界から甦らせた神の力に対する信頼がそこにある。「福音には神の義が啓示されて」福音には神と人との関係を正しくさせ,それが社会生活にも正しい秩序をもたらすのである。「正しい者は信仰によって生きる」ハバクク2:4。義人は自分の律法の業によってではなく,キリストを救い主として信じる信仰によって赦され,潔められ,救い出される者なのである。
       

「主イエスは先頭に立って」 マルコによる福音書10章32~34節
  牧師 阿部祐治 
 
 一行がエルサレムへ上って行く途中,イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て,弟子たちは驚き,従う者たちは恐れた。
 
 主イエスの十字架の御受難を覚えるレントの期間に泉高森教会に赴任した。これからの教会形成,牧会の基本的姿勢を示されるのが,最初の礼拝において示されたこの聖書の御言葉であった。
 10:21に金持ちの男が真摯な思いで求道して来た。その男に主イエスは,「彼を見つめ,慈しんで言われた」。原文では「彼を見つめ,彼を愛した。そして彼に言った」となっている。男に対する主イエスの愛がここに生起している。一人の求道者に対して,正面から向かい合う愛が生じてくる事実が,記述されている。
 しかし,この男と主イエスの出会いは残念ながら悲しい結末を迎える。「この人はこの言葉に気を落とし,悲しみながら立ち去った」。
 この男が求めたものは,「永遠の命を受け継ぐ」ことであった。永遠の命を受け継ぐことは,神の国に入るということであった。この男は,今までの生活の仕方で掟を守ってきたと断言する。それに対して主イエスは,「あなたに欠けているものが一つある。天に宝を積み,それから私に従いなさい」と求められた。
 主イエスは,神が与えていてくださる大事なものを,神が与えてくださる喜びの救いの音信のために差し出して欲しいと求めておられる。喜びが聞こえているか,喜びの中に立っているか,という問いがある。「イエス・キリストのために」「福音のために」私共は福音という喜びの知らせの前に喜んで捨てることができるかと,主イエスは言われているのである。
 自分の弟子たちに対して,全ての人々に対して慈しんで,神の国という家に神は招き入れようとされておられる。主イエスの愛が込められた呼び掛けであり,弟子たちを信頼して語り掛けている言葉である。
 ここで,喜びの源となる主イエスとはどのようなお方であるのかを,改めて問うことは自然なことである。「弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた」。びっくりしたのである。特に一行がエルサレムに上って行く途中,イエスは先頭に立って進んで行かれる姿に驚き恐れるのである。突然,今まで見たこともない姿勢で,先頭に立ってエルサレムに向かって歩き始められた主イエスがそこにおられた。十字架で待っている苦しみと死を恐れることなく,それが神の御旨であることを信じて,まっしぐらに進んで行かれるのである。「先頭に立って」とは,彼らに先立って進んで行かれるということであり,教会の歩みにおいても私共信仰者の先頭に主イエスがおられ,導いてくださる主イエスの後に,私共は主イエスの姿をしっかり見据えながら歩む者でありたいのです。
 多くの者たちが躊躇していた中にあって,主イエスは誰よりも真先にエルサレムへと上って行かれるのであった。